徳川家系図(徳川将軍家家系図・水戸徳川家家系図・額田藩・守山藩)


本項で記載する徳川家関連家系図について

以下の徳川家の家系図は、別メニュー「徳川家・徳川光圀公(水戸黄門)と額田・鹿嶋八幡神社の由来」に記載している年表に出てくる徳川家に関する人名をわかりやすくするために作成しています。年表に登場する人物名は、家系図上においてピンクの枠で記載されています。

年表に出てくる人名で、ピンクの枠で記載されている人名が直接的に額田や鹿嶋八幡神社に関係しているわけではありません。
直接的な関わりは、水戸藩第2代藩主の徳川光圀と光圀の弟で額田藩第1代の松平頼元,その子の額田藩第2代・守山藩第1代の松平頼貞です。
なお、水戸徳川家第1代の徳川頼房における額田との関係は、水戸徳川家の墓地「瑞竜山」の関係(水戸徳川家の墓は瑞竜山にするとの頼房の遺志)を考慮すると頼房自身が瑞竜山を訪れていたことが考えられ、額田を往来していたと思われる。

徳川将軍家の家系図(徳川家康・徳川頼宣・徳川頼房)

徳川将軍家の家系図(徳川家康・徳川頼宣・徳川頼房)
徳川家康の十男の徳川頼宣は、紀州徳川家の第1代であり、その弟で十一男の徳川頼房が水戸徳川家の第一代となる。

本来、徳川頼宣は、慶長8年(1603年)に、2歳の時に常陸水戸20万石を与えられたが慶長11年(1606年)に駿府50万石に転封され、そのあとの慶長14年(1609年)に徳川頼房が新たに水戸25万石として与えられた。

その後、徳川頼宣は、大坂冬の陣と大坂夏の陣で活躍し、元和5年(1619年)に紀伊国和歌山55万5千石に転封され、紀州徳川家の家祖となった。
額田との関係で徳川頼宣が登場するのは、頼宣が全国の総本社である淡島神社を改築し保護し、その甥である額田藩主第一代の松平頼元が額田に寛文元年(1661年)に淡島神社を寄進造立した由縁による。

第三代将軍家光は、慶安元年(1648年)に額田の鹿嶋宮にご朱印地15石、八幡宮に朱印地20石を与えていることによる。

綱吉は、徳川光圀の隠居時の将軍であり、副将軍として綱吉の後見人でもあり、隠居は綱吉が認めたものである。なお、綱吉は、額田藩の第2代松平頼貞に岩城守山藩の藩主を命じており、これにより水戸藩の支藩であった額田藩は守山藩となり額田の石高は水戸藩に返納され額田藩は消滅することになる。

水戸徳川家の家系図(徳川義房・徳川光圀・松平頼元)

水戸徳川家の家系図(徳川義房・徳川光圀・松平頼元)
水戸徳川家の第一代が徳川頼房であるが、寛文元年(1661年)にその子の光圀がで第二代藩主となる。

また、寛文元年(1661年)に光圀が弟の松平頼元に那珂郡2万石(額田藩)を水戸藩の支藩として与えており、松平頼元が額田藩の第一代となる。

光圀は、元禄7年(1694年)に額田の鹿嶋宮と八幡宮を合祀し鹿嶋八幡宮を建立した。また、系図外の娘を額田の庄屋である鈴木家に嫁に出している。

水戸藩第一代の徳川頼房と額田の関係は定かではないが、水戸藩第2代藩主徳川光圀が水戸家墓地を久慈郡の瑞竜山に定めるにあたり初代藩主徳川頼房の遺志を受け継いだとしている。このことからも頼房は、佐竹の懐柔も兼ねて瑞竜山のある久慈郡にも出入りしていたことがわかる。
当然に、水戸→那珂郡→久慈郡であるから那珂郡の額田にも訪れていたはずである。

額田藩(松平頼元・松平頼貞):守山藩の家系図

額田藩(松平頼元・松平頼貞):守山藩の家系図

松平頼元は、第二代藩主光圀の弟であり、寛文元年(1661年)光圀が水戸の藩主となると同時に兄の光圀から額田2万石を与えられた。
元禄7年(1694年)にその子松平頼貞が額田藩を継承した。

正保13年(1700年)9月に松平頼貞は、第5代将軍徳川綱吉の命により、額田藩から岩城守山藩(現福島県郡山市)の藩主にとりたてられ、同時に額田の石高は、水戸藩に返納された。以後、守山藩は幕末まで継続することになる。

松平頼元に始まる額田藩の系列その後守山藩系列として、頼貞の子の代で5代高松藩主や5代越後高田藩主(旧上杉領地)や常陸府中6代藩主(現:石岡市)を排出している。

幕末においては、徳川斉昭の子(徳川慶喜の弟)である頼之が継いでおり、最後の喜徳は守山の藩主から会津の松平容保の養子となり会津松平家十代当主となっている。


何故、徳川家は那珂郡・久慈郡の実質的な管理を行ったのかについて(佐竹氏との関係)

天正12年(1584年)当時、佐竹氏は、後北条氏と和議を結んで南方を抑えていたが、北方では伊達政宗に黒川城(義重の次男であり義宣の弟である蘆名義広が城主となっていた)を陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。

天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し佐竹氏19代当主となった。

佐竹氏は、伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。

佐竹氏は、秀吉の小田原征伐(天正18年:1590年)においては、宇都宮国綱ら与力大名を含めた1万余の軍勢を率いて秀吉のもとに参陣し、天正18年(1590年)6月、石田三成指揮の下、忍城を攻めを行い忍城水攻めの際の堤防構築に従事するなど功績をあげた。
小田原の役後、義宣之功績に対して、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられている。

また、義宣は、天正18年(1590年)12月23日、秀吉の執奏によって従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され、天正19年(1591年)1月2日には、秀吉から羽柴姓を与えられる。

その後も、天正19年(1591年)の朝鮮出兵や伏見城の普請等において功績を果たした。
文禄4年(1595年)6月19日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定されたことを受け、義宣は、54万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領しており急激に勢力を拡大している。

これにより、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという。

慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取ったが、上杉との密約等の事情で外様大名として、慶長7年(1602年)に常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へ減転封された。

家康は、江戸幕府(1603年)の起こす前に、徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。そのため江戸幕府近接の大勢力の佐竹氏の力を減殺する必要があった。

ところで、佐竹氏は石高を半分以下にさせられたため佐竹氏の家来の多数が常陸にととまることになった。
この時、義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与えることはできないであろうことや、50石または100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている。

家康は、佐竹氏を秋田に転封させると同時に、自らの子供(徳川頼宣・徳川頼房)を佐竹の後に藩主として配置したのである。
また、水戸徳川家(徳川光圀)は、佐竹の本拠地である、久慈郡(太田)や那珂郡(額田)に弟を藩主とする支藩を置いたと考えられる。