女性の守護神:淡島神社 (無病息災・安産祈願・子宝祈願・縁結び・針供養・人形供養)

茨城の淡島神社:安産祈願・子宝祈願・縁結び・人形供養・針供養・無病息災

茨城の淡島神社の鳥居と参道
女性の守護神:淡島神社
淡島神社の拝殿
淡島神社:松平頼元

茨城額田の淡島神社  徳川光圀の弟の額田藩主:松平頼元が寄進建立

茨城額田の淡島神社  徳川光圀の弟の額田藩主:松平頼元が寄進建立


淡島神社は、鹿嶋八幡神社(額田神社)の本殿の裏に参道があり、その奥に鎮座している。
祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大巳貴命(おほなむちのみこと)、息長足姫(おきながたらしひめのみこと)である。
神社の創建は、江戸時代初期正保元年(1644年)といわれ、鹿島大明神社の北側にあらたに参道を造り淡島神社を造営している。
淡島神社の本社は、和歌山県和歌山市におる加太神社の俗称である。
額田の淡島神社の霊験は、女性が主で安産祈願・子宝祈願・縁結び・針供養である。額田の淡島神社の本殿には、蛇のミイラが安置されている。

茨城額田の淡島神社  徳川光圀の弟の額田藩主:松平頼元が寄進建立_2

正保元年に、徳川頼房の四男の松平頼元が現在の額田・向山・米崎を知行し陣屋が額田にあり、松平頼元が観音寺に淡島神社を寄進したことが始まりとされている。
この時期は、まだ、寺社の分離を行っていない時期であり、鹿島大明神社と観音寺は同じ場所にあったとされている。

松平頼元の居所については、「土芥寇讎記」という書に「居所常州糠田、本知に二万石」と記載されている。」

※「土芥寇讎記」は、記述内容から元禄3年(1690年)から4年にかけて脱稿したと思われる。
原本は和綴本全43冊、首巻に総目録、第一巻が将軍家の初代から家康までの略伝、第二巻~第42巻に支藩を含めた諸大名242人について、親藩を先に、次に諸藩(譜代と外様の区別無し)の順に記述されている。諸藩の中の順は、一部の例をのぞいて、ほぼ石高の高い方から降順に記述されている。
一種の各藩の「紳士録」とも言える物であり、この後江戸時代後期に刊本として流通した「武鑑」の嚆矢となったとも言われているが、『土芥寇讎記』は現在東京大学史料編纂所が蔵しているものしか確認されておらず、余り一般には流通しなかった本ではないかとも考えられ、それゆえ「謎の史料」と言われている。


鹿島大明神社と淡島神社の歴史的な関係(茨城県那珂市額田)

正保元年(1644年) 初代水戸藩主徳川頼房の四男の松平頼元が那珂郡額田を知行する。「居所常州糠田、本知に二万石」
正保元年(1644年) 松平頼元が観音寺に淡島神社を寄進造立する。
元禄7年(1694年) 松平頼元4月死去、65歳。
元禄7年(1694年) 松平頼貞が後を継ぐ。
元禄7年(1694年) 水戸光圀の命により鹿島神と八幡神を統合し「額田鹿島八幡宮」とし、額田村の鎮守とする。
正保9年(1696年) 名称改め「額田鹿島八幡神社」、額田村の鎮守となる。社司は、白石氏を置く。
正保13年(1700年)9月 松平頼貞は、江戸幕府(将軍徳川綱吉)より岩城守山藩の藩主に取り立てられる。

※額田藩・守山藩
額田藩は、寛文元年(1661年)9月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち那珂郡内2万石を分与され立藩した水戸藩の支藩である。
当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられる形であったが、翌年には地方(じかた)に改められ、年貢を直接徴収できるようになった。また、御三家の分家(連枝)であるため参勤交代の義務がない定府大名であった。元禄6年(1693年)に頼元は死去し、嫡子頼貞が相続した。

元禄13年(1700年)9月、第5代将軍徳川綱吉の命により、頼貞に陸奥国田村郡などに2万石を与えられたため、陣屋を田村郡内の守山に移した。
額田藩の旧領は水戸藩に返され、以後は守山藩として存続した。
歴代藩主は江戸小石川の藩邸に定住し、参勤交代を行なうことは無かった。藩政においても水戸藩の監督を受ける立場にあった。
幕末期の元治元年(1864年)、武田耕雲斎ら天狗党の乱のとき、守山藩でも乱に関わった者が多数いたため、藩士の多くが処罰されている。戊辰戦争のときには新政府軍の北上の前に戦う事無くして降伏。明治2年(1869年)の版籍奉還で第7代藩主・松平頼升は守山藩知事となる。明治3年(1870年)、松平頼之が藩庁を常陸松川に移したため、守山藩は松川藩と改められる。翌年の廃藩置県で松川藩は廃藩となり、その所領は松川県となる。その後、白河県・磐前県を経て福島県に編入された。


淡島神社 施設フォトスライド (茨城県那珂市額田)

額田淡島神社の鳥居・参道・拝殿
額田淡島神社拝殿の扁額
額田淡島神社拝殿の内部の様子
額田淡島神社の本殿
額田淡島神社の本殿の彫刻
額田淡島神社の本殿の扁額・彫刻
 
  • フォト1 淡島神社の鳥居と参道
  • フォト2 淡島神社拝殿の扁額
  • フォト3 淡島神社拝殿内部
  • フォト4 淡島神社本殿の正面外観
  • フォト5 淡島神社本殿の上部 彫物 
  • フォト6 淡島神社本殿の斜め外観と本殿扁額

淡島神社 絵馬フォトスライド (茨城県那珂市額田)

 

額田淡島神社と本社淡島神社と徳川家の縁

紀伊の淡島神社総本社は、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え保護し、江戸時代に全国に普及した。   
淡島神社総本社のホームページには、以下のような記載があり、徳川家との関係がうかがえる。

「歴史ある淡島神社には、長い時代を静かに生き抜いてきた見事な雛人形が、数多く残っています。この多くは、紀州徳川家から奉納されたものです。
姫君誕生のおりに、その初節句には必ず一対の雛人形が奉納されました。
古文書には、姫君たちの名前である寛姫様・菱姫様・芳姫様献上の記述も見られます。
今も、その雛人形には、親のやさしい思いが息づいています。」

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖であるが、常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主にもなっている。 1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸20万石を与えられる。結局、江戸定府のまま水戸には入らず終いであった。1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服する。同年、駿府50万石に転封され、駿府城に入って家康の許で育てられた。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。 1619年(元和5年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。

ここで、水戸藩の実質の初代藩主は、徳川頼房で徳川家康の十一男であり、水戸徳川家の祖である。水戸藩第2代藩主は、徳川頼房の子である徳川光圀であり、徳川光圀が額田鹿嶋八幡神社を合祀建立している。徳川光圀の弟である松平頼元は、額田の藩主となり額田淡島神社を寄進している。松平頼元が、額田の地に叔父である徳川 頼宣が保護した紀州総本社の淡島神社の支社を建立したことは、水戸徳川家と紀州徳川家の縁も考えると興味深い。

<額田淡島神社は、徳川頼宣が甥である松平頼元の立藩に際して地域貢献として寄進を勧めたと考えられる?>

松平 頼元(寛永6年:1629年9月1日~ 元禄6年:1693年6月1日)は、正保元年(1644年)、15歳の時に額田藩(2万石)を光圀から知行され、同年、観音寺に淡島神社を寄進造立している。

額田藩は、水戸徳川家の分家(連枝)であり参勤交代の義務がない定府大名であったため、頼元は、水戸藩徳川家上屋敷内(文京区後楽:小石川後楽園)又は、その近辺に屋敷を構えていたと考えられる。
また、徳川頼宣(慶長7年:1602年4月28日~寛文11年:1671年2月19日) の紀州藩徳川家上屋敷は、現在の千代田区元赤坂の迎賓館(旧赤坂離宮)のところにあった。
この間は、徒歩20分もかからない距離であり、紀州の徳川頼宣と水戸の徳川頼房は、同母の兄弟でもあり、頼元も、叔父の徳川頼宣のところにもよく出入りしていたと考えられる。

徳川頼宣は、紀州の淡島神社を修復保護し、淡島神社は江戸時代に全国に普及し末社1000社程になる。
しかしながら、正保元年(1644年)においては、江戸の初期であり、徳川家による淡島神社の保護も始まったばかりで、全国的に淡島神社は普及していなかったと考えられること、頼元は15歳という若さであったことを考慮すると、頼宣が甥の頼元の立藩に際して、藩主の地域管理も考慮し額田淡島神社の寄進造立をすすめたものと考えられる。


淡島神社 総本社(和歌山県和歌山市加太)の案内

淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余り、当神社はその総本社であり、和歌山県和歌山市加太にある淡嶋神社が総本社である。 神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の祠が加太の沖合いの友ヶ島のうちの神島(淡島)に祀られたことが始まりとされる。

 社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納した。
その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされている。

 ご祭神の少彦名命は、医薬の神様で、特に、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかといわれている。 江戸時代には、淡島願人と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。

雛まつりと淡島神社:総本社の(和歌山県和歌山市加太)

やさしく美しい日本の行事、雛まつりは、親は、わが子の健やかな成長への願いをお雛様に込めて祝う祭りです。
  幼い日の思い出が鮮やかによみがえってきます。
   男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后の
  男女一対のご神像であるとされています。また、雛祭りが三月三日になったのは、
  友ヶ島から対岸の加太へのご遷宮が、仁徳天皇五年三月三日であったことから。
  雛祭りの語源も、スクナヒコナ祭が後に簡略化されて、ヒナまつりと言われる
  ようになったとされています。
   歴史ある淡島神社には、長い時代を静かに生き抜いてきた見事な雛人形が、
  数多く残っています。この多くは、紀州徳川家から奉納されたものです。
  姫君誕生のおりに、その初節句には必ず一対の雛人形が奉納されました。
  古文書には、姫君たちの名前である寛姫様・菱姫様・芳姫様献上の記述も見られます。
  今も、その雛人形には、親のやさしい思いが息づいています。